熊野古道とは
古代から中世にかけ、本宮・新宮・那智の熊野三山の信仰が高まり、上皇・女院や庶民にいたるまで、旅人の切れ目がなく行列ができた様子から「蟻の熊野詣」と例えられるほど多くの人々が熊野に参詣しました。
熊野古道にはいくつかのルートがあります。そのうち多くの旅人が歩いたのは、京都から大阪・和歌山を経て田辺に至る紀伊路、そして田辺から山中に分け入り熊野本宮を経て那智・新宮へ向かう「中辺路(なかへち)」です。中辺路は後鳥羽院・藤原定家・和泉式部も歩いたとされています。
そのほか、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう「大辺路(おおへち)」、高野山から熊野へ向かう「小辺路(こへち)」、伊勢と熊野を結ぶ「伊勢路」、吉野・大峯と熊野本宮をつなぐ山岳修験道「大峯奥駈道」など、いくつかのルートがあります。
田辺は中辺路と大辺路の分岐点にあたり、また中辺路ルートの大部分が田辺市にあります。田辺から熊野本宮を経て那智・新宮へ向かう中辺路(なかへち)、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野へ向かう小辺路(こへち)が、「熊野参詣道」として世界遺産に登録されています。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」
「紀伊山地」は紀伊半島の大部分を占める山岳地帯で、標高1,000~2,000m級の山脈が走る日本有数の多雨地帯で、豊かな雨水が深い森林を育んでいます。
紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられており、仏教も深い森林に覆われたこれらの山々を阿弥陀仏や観音菩薩の「浄土」に見立て、超自然的な能力を習得するための修行の場としました。
その結果、紀伊山地には三つの霊場「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」が生まれました。
三霊場は、古代以来、自然崇拝に根ざした神道、中国から伝来し我が国で独自の展開を見せた仏教、その両者が結びついた修験道など、多様な信仰の形態を育んだ神仏の霊場であり、そこに至る「熊野参詣道」「高野山参詣道」「大峯奥駈道」などの参詣道は都をはじめ各地から多くの人々の訪れる所となり、日本の宗教・文化の発展と交流に大きな影響を及ぼしました。
『紀伊山地の霊場と参詣道』は、三重、奈良、和歌山の三県にまたがる「紀伊山地の自然」がなければ成立しなかった「霊場」と「参詣道」及びそれらを取り巻く「文化的景観」が主役であり、日本で唯一、世界でも類を見ない資産として高い価値を持っています。
熊野三山
「熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)」、「熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)」、「熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)」及び「那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)」の三社一寺を「熊野三山(くまのさんざん)」と呼びます。
熊野三山は、和歌山県の南東部にそれぞれ20~40㎞の距離を隔てて位置しており、「熊野古道(熊野参詣道)中辺路」によって、お互いに結ばれています。
三社は個別の自然崇拝に起源を持ちますが、三社の主祭神を相互に勧請し「熊野三所権現」として信仰されるようになりました。
熊野古道ルート
熊野古道 中辺路
熊野参詣道のうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路が「中辺路」(なかへち)と呼ばれています。特に平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が延べ100回以上も繰り返した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)となりました。
熊野古道 小辺路
高野山と熊野本宮を最短距離で結ぶ約70kmの街道を高野街道もしくは熊野古道小辺路といいます。途中、水ヶ峰、伯母子岳、三浦峠、果無峠と、1000m級の山越えがあり、最短ルートといえどもかなり険しい山岳道です。
熊野古道 大辺路
田辺市から那智勝浦町の浜の宮までの海沿い、約120kmの区間を指します。熊野参詣のルートとしては中辺路が多用されたため、大辺路は時間に余裕のある庶民や文人墨客が枯木灘や熊野灘の風景を愛でながら歩いた道であったようです。
熊野古道 伊勢路
伊勢神宮からいくつもの峠を越え、熊野三山を詣でるために通った道です。熊野参詣道のひとつとして世界遺産にも登録されています。二つの聖地を結ぶ祈りの道に、自然と人の営みが長い時間をかけて形成した文化的景観が、今でも随所に息づいています。