南方 熊楠(みなかた くまぐす)
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博物学者・生物学者・民族学者。(1867-1941)
生物採集に没頭し、キノコの図譜3500枚、藻類のプレパラートを4000枚、粘菌標本は7000点近くを残しました。ロンドンに滞在中は民俗学・人類学の英文論文をいくつも発表し、帰国後は柳田国男氏とともに日本の民俗学研究と立ち上げました。
1867年に和歌山市に生まれ、19歳で渡米。25歳でロンドンに渡り8年間滞在後、帰国後は那智山中に籠り、熊野の自然に魅了されます。熊楠37歳の時田辺市に移住。永住の地となりました。田辺では海辺から山間まで粘菌やキノコ、植物等精力的に採集、研究活動をおこない、近辺で足を踏み入れなかった山や谷を探すほうが難しいといわれています。
1906年に明治政府が出した神社合祀令により、1町村に1社を残して、後は合祀(ある神社の祭神をほかの神社に合わせ祀ること「ブリタニカ国際大百科辞典」)するという政令によって、神社や祠が境内の森とともに消えていくことに大反対をした熊楠は、精力的に神社合祀反対運動を行うこととなります。この反対運動により合祀を免れた神社や保全された木々たちが田辺市内にはいくつも存在しています。
南方熊楠を知る施設
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南方熊楠顕彰館
〒646-0035
和歌山県田辺市中屋敷町36番地
TEL:0739-26-9909 FAX:0739-26-9913
「熊楠の生涯」や「田辺・熊野地域での活動」などを紹介した展示パネルや熊楠に関連する様々な図書と、所蔵資料のオンライン検索やデジタル画像閲覧が可能です。
顕彰館の収蔵庫には熊楠が遺した約25,000点に及ぶ資料や文献が保存されており、現在も調査が進行中です。
隣接されている南方熊楠邸は、1916(大正5)年から住んでいた邸宅を2006年、顕彰館の建設に合わせて熊楠存命当時の姿に復元したものです。敷地面積は約400坪(1334平方メートル)。
邸内には大きな楠や柿、みかんの木があり、柿の木から新種の粘菌を発見するなど、庭は研究園そのものであったと言われています。
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南方熊楠記念館
〒649-2211
和歌山県西牟婁郡白浜町3601-1
TEL/FAX:0739-42-2872
南方熊楠の幼少期から晩年にかけてのノートや資料、遺留品等が展示されています。
「南方熊楠全集」等の書籍の閲覧・貸し出しも行っています。
植芝 盛平(うえしば もりへい)
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高川 格(たかがわ かく)
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6歳で囲碁を覚え、大正15年、光原伊太郎(当時5段)の門に入り、昭和3年に入段して棋士となった。同27年第7期本因坊戦で、時の本因坊橋本宇太郎9段を破ってタイトルを奪い、本因坊秀格と号した。以降第15期まで連続して挑戦者を退け、「本因坊9連覇」の偉業を達成、同39年に名誉本因坊の称号を贈られた。獲得したタイトルは10段、王座などを加え18に及ぶ。
その後囲碁指導に欧州を、囲碁代表団団長として中国を訪問するなど、今日世界中で愛好されている囲碁の国際化と近代囲碁に新時代を開き、日本棋院棋士会会長等も務めた。
野長瀬 晩花(のながせ ばんか)
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中辺路町近露生まれ。本名弘男。14歳で大阪の中川蘆月塾に入り、明治42年には京都市立絵画専門学校に入学。西洋絵画の表現を取り入れた斬新な作品を描き、同44年発表の《被布着たる少女》が注目される。大正7年、土田麦僊、小野竹喬らと国画創作協会を創立、美術界に旋風をおこした。同10年に協会員たと渡欧し、昭和2年《海近き町の舞妓》を発表後は中央画壇から離れた。中国へのスケッチ旅行を繰り返した後、『北満国境線を画く』を出版。その後疎開先の信州文化人らと白炎社を結成、芸術文化活動に貢献した。
武蔵坊 弁慶(むさしぼう べんけい)
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怪力無双の荒法師として有名な弁慶の出生地について、田辺説が最も有力だと考えられているのは「義経記」の記述によるものである。それによると弁慶は熊野別当家の嫡子で、幼名を鬼若という。比叡山で修行を行い、自ら名付けたのが西塔武蔵坊弁慶。比叡山を下った弁慶は、京都で義経と出会った。これが童謡にも歌われる五条の橋の上での決闘で、敗れた弁慶は義経と主従のちぎりを結び、生涯の部下となった。市内には、弁慶田辺生まれの記念物として、古くから「弁慶松」があり、「弁慶産湯の井戸」「産湯の釜」「腰掛け石」等が知られている。