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伝承・伝説から知る熊野

野中の一方杉と継桜王子

 熊野に残る伝説には、科学的に証明しがたいものや本当にこんなことが起こるの!?と疑問に思うものも多々あります。しかし、本当かどうかは別として、そうした伝説がなぜ残されているか、という視点で考えてみると、熊野が人々の信仰を集めた理由やその懐の深さを知ることができるかもしれません。
 ここでは、3つの物語から、熊野について考えてみたいと思います。

藤原秀衡の熊野詣

 妻が子を授かったお礼に熊野詣をしたという奥州の武将・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)。妊娠した妻と一緒に参詣していましたが、滝尻王子付近で妻が産気づき出産。いまでは考えづらいことですが、当時は出産は穢れを伴うもの(産穢)とされていました。そのため、赤子を連れて熊野詣はできないと思った秀衡ですが、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、近くの岩屋に赤子を残して旅を続けることにしました。
 野中(滝尻から約17km)まで来て、置いてきた子のことが心配になったのでしょうか。秀衡は、道ばたの桜の枝を折り、「もしわが子が死ぬならば、この桜も枯れるだろう。熊野権現の御加護あって、もし生きているのならば、この桜も枯れないだろう」と願掛けをして、地面に突き立てました。
 その後、熊野参詣を終えた秀衡が、野中まで戻ってきたところ、突き立てた桜の枝が芽吹いていたので、赤子を置いてきた場所へと先を急ぎました。岩屋まで戻ると、子はオオカミに守られながら、岩から滴り落ちる乳を飲んで無事に育っていました。これは熊野権現の霊験だと感動した秀衡は、滝尻に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めたといいます。

 この物語から、滝尻王子の先にある岩屋は「乳岩」と呼ばれ、野中には秀衡が願掛けして突き立てた桜の枝から育ったとされる「秀衡桜」があり、継桜王子の名もこれに由来しているといわれています。
 この話を聞いて、岩から乳が出たり、その乳で赤子が育つなんてありえない、子を置いていくなんて残酷だ、と感じる方もいらっしゃると思いますが、この物語は、性別や身分、浄不浄、信不信、貴賤を問わずすべての人々を受け入れてきた熊野の寛容性を伝えるものと考えることもできます。
 いまでこそ多様性やジェンダーフリーなどが叫ばれますが、当時は身分の差や男女の差は如実だったと考えられます。しかし、そうした時代にも熊野という地は、穢れや性別などを関係なく、すべての人々を受け入れてきた場所だと伝えることが、この物語が残されている意味なのかもしれません。

野中の一方杉と継桜王子

和泉式部の熊野詣

 熊野古道中辺路を歩き、熊野本宮大社まであと3kmほどの場所に、伏拝王子があります。ここへ来て初めて熊野本宮大社を目にすることができ、旅人が思わず伏せて拝んだということから「伏拝(ふしおがみ)」という名がついたとされています。
 ここに来ると、ひとつの歌が記された標柱が立っています。
 「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」
 平安時代の女流歌人・和泉式部が熊野詣の際に詠んだ歌です。
 やっと熊野本宮大社にたどり着くというところで月のさわり(月経)になった和泉式部は、これでは参拝はできないと悲しみ、その心情をこの歌に表しました。

 しかし、その夜、和泉式部の夢に熊野権現が現れ、「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」(俗世間と分け隔てない神なので、月のさわりも苦しくない)と、気にせずにお参りなさいと歌で返したのです。これにより、和泉式部はそのまま無事に参詣することができたといいます。
 実はこの話、南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を全国に広めた時宗の人々が創作した物語とされています。平安中期に編纂された法令集「延喜式」には、死や出産、月経は不浄のものとされていました。しかし、熊野はそうしたことは気にせず、だれでも平等に受け入れるということを伝えるために作られたものだと考えられており、いまの時代に見つめ直したい物語のひとつです。

熊野古道中辺路 伏拝王子

小栗判官と照手姫

湯の峰温泉 つぼ湯(湯船)

 約600年前、戦に敗れ常陸の国(茨城県)に逃れた小栗判官(おぐりはんがん)は、相模の大富豪・横山家の照手姫と恋におちますが、二人の関係に立腹した横山家は、小栗判官に毒を飲ませ殺してしまいます。
 地獄に落ちた小栗判官は閻魔大王の同情され、餓鬼阿弥の姿に変えられ現世に送り返されました。哀れな姿で倒れていた小栗判官は通りかかった高僧に助けられ、木の車に乗せられて熊野の湯の峰を目指します。小栗の首には高僧により「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と書かれた札が下げられました。
 一方、照手姫は恋人を失い、さらに兄弟の策略により流浪の身となっておりました。ある時、首から札を下げた餓鬼阿弥を見て、亡き小栗判官の供養になればと湯の峰へ参詣の旅に旅立ちました。長い旅の果て、湯の峰に辿りついた照手は餓鬼阿弥を49日間つぼ湯に浸けて湯治させたところ、なんと元の小栗判官の姿に戻りました。

 熊野古道とは別に小栗が通ったと言われる小栗街道と呼ばれるルートがあります。しかし、小栗街道はひとつではありません。それはなぜか。一説では、小栗とは特定の人物ではなく、物語に出てくる小栗のような体の不自由な人々のことであり、そうした人々が熊野を目指す際に通ったいくつものルートが小栗街道であると考えられているからです。
 小栗判官は目が見えない、耳も聞こえない、口もきけない、歩けもしない体で地上に戻されました。そのような体の小栗が熊野まで来ることができたのは街道沿いの人々や熊野を詣でる人々の助けがあったからだと考えられます。
 説教節で広まった小栗判官と照手姫の物語。それは熊野の地の聖性やすべての人々を受け入れる寛容性を広めるだけでなく、いまの時代においても、こうした助け合いの大切さを伝えてくれています。

湯の峰温泉 湯筒

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